2010年07月27日
光の恵みと涙の御絵
この項より、古い手帳のメモだけでなく、当時ブルー・アーミの日本代表を務めておられた志村辰弥神父様へ提出した報告書のコピーをも確認しながら書き進めることとなります。
二度目の回心によって再び夙川教会へ通いはじめたのは、1992年の2月9日(日)からです。早朝、私は目覚まし時計のベルに手をのばして止めてから布団の中でぐずぐずしていました。教会へ行こうと決心したものの、日曜日はゆっくり朝寝をしたいという未練があり、あたたかい布団の中でつい睡魔に負けてしまいました。すると、また時計が鳴ったのです。これにはびっくりして飛び起きました。
その目覚まし時計は構造上、1度ボタンを押してベルを止めればセッティングし直さない限り2度鳴るようには出来ていなかったからです。時計を見ると急いで家を出てもミサには遅刻で、カトリック要理に間にあうかどうかという時間です。家族に目覚まし時計に触ったのか尋ねてみましたが、みんな「知らない」と答えます。私は慌てて朝食も取らずに教会へ向かいました。
カトリック要理のあとK神父様に受洗希望を申し出ました。神父様は戸惑われたようですが、さすがに二度目の回心の出来事を話す勇気はありませんでした。神父様は、「復活祭には間に合わないから、8月15日被昇天祭の予定にします」と言われました。2月9日(日)は、復活祭受洗予定の人たちの入門式の日だったのです。
熱心さを取り戻した私は、4月4日(土)からは、初土曜日にも夙川教会の夕方のミサに出席するようになりました。そして、4月下旬になると、「5月のゴールデン・ウィークには何としてでも秋田の聖体奉仕会へお参りしなければ」と思い始めました。この感情を言い表すのは難しいのですが、心の内奥からせき立てられているようで、この機会を逃せば自分の人生において取り返しのつかない損失になるという感じです。
秋田の出来事について私が詳しく知ったのは、北野教会に通っていた頃です。ミサからの帰りにN氏家におじゃましていたとき、本棚にあった『極みなく美しき声の告げ』(コルベ出版社1980年増補版)という本の題名に目をひかれて手にすると、N氏が「ぼくも一時期は熱心に宣教活動したけれど、ニセ物という噂が流れてからは熱がさめてしまったよ。興味があるなら持っていっていいよ」と言って下さったのが、関心を抱くきっかけでした。
その年(1989年)の夏の休暇に東北旅行を計画していた私の弟に便乗して、8月20日の夜は仙台に1泊、21日には平泉から角館と巡り、22日の午後に秋田市添川湯沢台の聖体奉仕会に1時間ほど立ち寄ったのが最初の訪問でした。涙を流されたという木彫りの聖母像の前でシスターのお話を聞きました。私がロザリオの祈りを始めて弟と2人きりになった隙に、弟は制止する間もなくツッと手を伸ばして聖母像の右掌に触れました。すぐ手をひっこめて変な顔をしているので、「どんな感じだった?」ときくと、弟は言いにくそうに「なんだか人間の掌のような感触だった」と呟いたのを覚えています。
秋田への最初の訪問は、好奇心に駆られて観光がてらという気分でしたが、2回目の今度はそれでは済まないという気がしました。また弟を誘って、5月4日(月)の朝の飛行機で発ちました。電話で予約して、聖体奉仕会の訪問者用の宿泊施設「聖マリアの家」に1泊させて頂けたので、ロザリオの祈りや「晩の祈り」、翌朝5時に起床して「朝の祈り」等に参加できました。それまでカトリック教会や修道院の祈りの集いで体験してきた雰囲気とはあまりにも違うので驚きました。「聖母像の落涙現象が止んでから10年以上も経つのに、これほどの緊張感が漂っているとは! これは本物だぞ」と直感しました。そこで、シスター方に私の事情を手短に話して、「無事にカトリックの洗礼を受けられるように祈ってください」とお願いし、涙を流された聖母像の前でもロザリオを祈ってお願いしてきました。
5月23日(土)には、北摂キリシタン遺跡を訪ねる集いに参加しました。北摂キリシタン遺物資料館を見学してから、高山右近像のある「愛と光の家」にも寄りました。祈りや黙想にもってこいの静謐な環境を味わって、心が平安に満たされる思いがしました。
5月24日(日)の夜明け前のことです。早く起き出して机の椅子にすわってロザリオを祈っていますと、突然、窓の外に太陽のように輝く光を見ました。知らぬ間に夜が明けたのかというほどの明るさでした。部屋の窓が北東向きで、窓の下に机があり、しばしば祈っているうちに夜明けを迎えていたからそう思ったのです。しかし、光はすぐに消えました。目の錯覚だったと思っていると、光の消えた方向から銀の鈴を振るように美しい女性の声が聞こえてきました。それは耳に聞こえると同時に心の中に直接響いてくるような声でした。
「時が迫っています。協力してください」。
私は驚いて、聞き返しました。
「そんなに時が迫っているのですか?」。
長い沈黙が続いて返事がないので、私は改めて問い直しました。
「私は何をすれば良いのでしょうか?」。
短い沈黙のあと、銀の鈴のような声が聞こえてきました。
「祈ってください」。
光がチラッと見えて、去っていかれる気配がしました。私はこれまでの信仰生活の経過をふり返り、何かしるしを頂けなければとても信仰を維持できない、今日のことも単なる幻覚か夢の中のこととして忘れ去ってしまうだろうと感じました。訴えかけるような気持ちだったと思います。私の気持ちが届いたのか、遠ざかってゆく光の源から一条の光の筋がのびて、窓の下に立ててあった少年イエス(御絵の説明文に「少年イエス」とあるので以後統一)の御絵に触れたように見えました。これはほんの数秒のことで、光はそれっきり見えなくなり、部屋の中は夜明け前の暗さに戻りました。
私は長い間、光が消えてから声を聞いたと思っていたのですが、今この文章を書いていて、光があまりにも眩しくて私の目が見えなくなっていたと書く方が正確ではないかと考えております。光が眩しくても通常の光のように目に痛みを感じるということはありませんでしたので、光が消えたと勘違いしていたのかもしれません。というのは、光が去ってゆくときに前述のように刺激の変化によってまた光を見たように記憶しているからです。いずれにしても、確かめようがないのではっきりとはわかりません。
翌5月25日(月)の夜明け前のことです。昨日から何をしても心は上の空でずっと祈り続け、夜中祈り続けましたが、とうとう眠気に勝てず布団に入ってうとうとしました。夢を見ていて「馬を走らせろ! 大阪がなくなるぞ! 大声で叫べ!」という男性の声にハッと目が覚めました。夢の内容は忘れましたが声は非常にリアルだったので、恐れおののきながら祭壇の下にひざまずいて祈りつづけました。
一息ついて机の椅子にすわり、昨日見た光のことを思い返しているうちに、光の去りぎわに一条の光の筋が窓の下の御絵にのびたことを思い出して、あれは何だったのだろうと御絵を手に取りました。夜明けの明るさで少年イエスの御絵をながめますと、それが涙の御絵に変化しているのに気付きました。その時です。まるで私が御絵の涙に気付くのを待ち構えていたかのように、部屋隅や家の周囲にいるらしい何百何千という霊魂たちが「天の自由!」「イエズスさまが絶対!」「努力!」と口々にいっせいに叫ぶのが聞こえました。
姿は見えませんが叫び声に圧倒されて「いったい、これは何事だ!」と思わず私が声を出すと、それを合図に、合唱が指揮に合わせてピタッと口をつぐむように叫び声はやみました。それっきり霊魂たちの叫び声は聞こえなくなりましたが、私の身体全体から力が抜けて肩や膝がガクガクふるえ、ふるえは止めようにも止まらず、机の上に突っ伏して耐え忍ぶのが精一杯でした。
Posted by soyokaze at 18:13
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