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soyokaze

2010年07月27日

疑念と当惑


 前項までに私は、祖母の病気をきっかけにロザリオの祈りを始めてから、自分では思いもかけなかった体験に足を踏み込んでいった経緯について報告してきました。読者の方は、これほどはっきりした大きなお恵みを頂いたのだから、さぞ信仰にも確信が持てて励みになっただろうと思われるかもしれません。実は私も、キリスト教に関わる前には、何か確信を持てるようなことを体験したり、悟りを得ることができれば、きっと心が楽になって一筋の道に邁進できるだろうと想像していました。ところが、現に自分がこうして恵みを受けてみると、頭の中で想像するのと実際に体験するのとでは大違いだと気付かされました。

 確信といっても、常日頃からの心構えがしっかりできていなかった私にとっては一時的な心の状態にすぎず、確信を得るきっかけとなった恵みが大きければ大きいほど、それに対する反動も大きくなるような気がします。「朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり」(金谷 治 訳『論語』岩波文庫)などと堂々と言える人は、すでにかなりの修行を積んできた人で精神的な水準も高いレベルに達しており、あと残っているのは確信を得ることだけという状態だから、そのように言えるのでしょう。

 私のように、青春時代から道を求めてさまよってきたと言っても一応の名目で、実質的には自分勝手で放恣な生き方に時間を費やし「帰ってきた放蕩息子」(ルカ15章)のような心境で教会に来た者には、せっかくお恵みを頂いてもその恵みによって与えられた確信という心の状態を維持してゆくこと自体が、なかなか困難な試練なのです。確信を信念として維持してゆくには努力が必要で、信念から信仰へと成長させるためには、どうやらたゆまぬ祈りと勉強が必要らしいのです。

「見ないで信じる人たちは幸いである」(ヨハネ20章29、フランシスコ会訳)というみ言葉の意味がよくわかります。見てから信じたのでは信じて当たり前で何の功徳にもなりませんし、信仰において成長しなければ、与えられた恵みに対する責任を問われかねません。なぜ帰ってきた放蕩息子に大きな恵みが与えられねばならないのかよく理解できますし、どうしてこういう恵みが人々に軽々しく与えられないのか納得できます。

 話をもとに戻します。1992年の5月、「光の恵み」の体験のあと私の心の中にまず湧いてきたのは疑いの念でした。夢や幻覚を見たのではないかという思いです。しかし、「光の恵み」や霊魂たちの叫び声を聞くという体験だけなら幻覚や幻聴で片付けることも可能ですが、「涙の御絵」というしるしがあります。こんなことがあり得るのだろうかと何度も御絵を斜めにすかしたり裏側から光をあててみたり、シミやカビが偶然付着して涙のように見える可能性などいろいろと考えてみましたが、どう拡大鏡で眺めても見事に描かれた涙としか言いようがありません。

 次に疑ったのは、もともとそういう涙の御絵だったのに自分が気付かなかっただけではないかという可能性です。自分の注意力や記憶力を疑ってみたわけですが、この点も、幼い頃から所持してきた御絵で、長い間机の引き出しの奥にしまい込んでいたとはいえ、たまには取り出して眺めていたのですから、もともと涙の御絵だったのならそうと気付かなかったはずがありません。

 カトリック教会に通うようになってから久しぶりに御絵を眺めたとき、なんだか以前に比べて御絵が愛くるしく感じられると思った記憶があります。どこがどうとは言えないのですが、少年イエスの顔が急に生き生きしてきたように感じたのです。キリスト教に関心を抱き始めた私の心の状態の変化によるものと思っていました。この時点で、涙が描かれていなかったという記憶は、はっきりしています。また、ホフマンという画家の描いた情景(ルカ2章)に涙はどう考えてもそぐわないものです。数年後に、同じ画家の同じ情景を描いた別の絵はがきを手に入れましたが、やはり涙は描かれていませんでした。

 どうにも疑いようがないとなると、今度は自分の体験した出来事をなんとか自分の頭で合理的に解釈しようと試み始めます。人間とはよほど往生際の悪い生き物らしく、これでもかと何度もびっくりするようなお恵みをいただいても、納得できるまでは、すぐに「へへーっ」と平伏して拝んだりしたくないという気持ちが働くようです。科学が万能で人類が地球の支配者だという風潮がまかり通る現代の日本の社会に住んでいると、気付かないうちに知らず知らずに心が傲慢になっているのです。

 あの太陽のように輝く光はUFOではなかったのか、大勢の叫び声は人間より高度に発達した精神文明を持つ宇宙人と接触したのではなかったのか等々、まるでSFの世界に出てくるような状況を思いめぐらしてみるのですが、どうも直感的にそうではないと感じられます。

宇宙人という考え方は、ある意味では正しいように思います。私たち人類も、宇宙の中の地球という1つの惑星に住んでいるのだから宇宙人です。つまり、昔の言葉では天地としか表現できなかったが、近年では宇宙という言葉で表現される全世界の創造主としての神をキリスト者は信仰しているという意味においてです。未知の領域と接触したショックや恐れ、不安は感じましたが、かといってSF映画に出てくる異星の異質な環境に住む宇宙人に出会ったような気味悪さや不気味さは全く感じなかったのです。むしろ、本質的に自分自身と同質でつながっていると直感することによる親密感さえありました。

従って、この場合における宇宙という言葉は、単に物質的な三次元の世界のみを指すのではなく、この世の人間の合理的な理解力をはるかに超えた霊的で多次元的な、より高次の世界を指すことになります。ただ、より深い感覚では、「言語に絶する」としか言いようのない部分もあります。人間が使っている言語は、物質的な世界の日常生活における意思の伝達のために創られており、共通認識から外れた深い真実や特殊な体験を表現するためには出来ていないのです。

 どうも、宇宙人という考え方をすると、かえって話がややこしくなるように感じます。むしろ、私たちの住んでいる世界が、どうやら物質的なこの世の世界だけではないらしいと、直接的な珍しい体験で感じさせられた、と述べる方が真実に近いように思います。

 十数年を経た今でこそ、こうしてある程度筋道立てて述べることが出来ますが、当時の私の心の動揺は非常に激しかったので、耐え忍んでロザリオを祈り続けるのがやっとという状態でした。赤ん坊がローソクの火に手をのばすときには、熱さを感じてから初めて手を引っ込めて泣き出します。そのように未知の領域と接触したときには、自分の判断力そのものが当てにならず、体験していることにどのように対処してよいのかさえわからなくなるようです。



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Posted by soyokaze at 18:09 │報告文集