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soyokaze

2010年07月27日

カトリック受洗


 1992年の5月から6月にかけて私の心がどれほど動揺していたか、私の周囲にいた人々や夙川教会でロザリオを一緒に祈っていた人々はよくご存じのことです。思い返すと、それは、私の回心に対するサタンからの総攻撃にあっていたと言う方が納得できるものです。いただいた恵みへの疑念や当惑だけでなく、キリスト教に対しても1日のうちに、いや1時間のうちにも心がごろんごろんと何回も180度回転するので苦しくてなりません。額や掌にあぶら汗がにじみでてくるほどです。「キリスト教は十字架に掛けられる覚悟が必要だが、仏教は楽だし、自分にはその方が合うのではないか」とか、「真実こそが重要だ。イエズス様は十字架に掛けられるまでに私たちを愛してくださった」というように、正反対の考えが次々に浮かんできては心を乱します。

 「涙の御絵」については、5月30日(土)にYさんの立ち会いのもとに簡単な報告書を御絵に添えて夙川教会のK神父様に提出しました。5日後に御絵をお返しになられたときに、「御絵といっても印刷物だから私にはなんとも言えない。出来事についてはその後の経過をみて沈黙を守るように」、また私の洗礼について、「あなたは少し問題があるようだから、時間がかかるかもしれない」と首をかしげながら述べられたのは、私にとってショックでした。ひょっとすると受洗まで、まだこれから何年もかかるかもしれないと考えると絶望的な気持ちになります。

 そんなとき、夙川教会の土曜日の夕方のミサのあと、ロザリオの祈りのグループの集まりの場で、私の陥っている状況について話しますと、O夫人が「灘教会の浜崎伝神父様なら洗礼を授けてくださるかもしれない」と教えてくださいました。

何かお導きがあるかと思って、6月7日(日)、カトリック灘教会の聖霊降臨のミサに、少年イエスの涙の御絵を鞄に入れて出席しました。そのミサからの帰りの電車の中で知人に出会い、同日午後に玉造のカテドラルで行われる大阪教区設立百周年記念のミサへ誘われて、そのまま同行しました。

自宅に帰ってから、鞄に入れて持ち歩いていた少年イエスの御絵を取り出して調べてみますと、新たに右の眦から涙の筋が頬をつたって流れ落ちています。やはり、水分がにじみ出るというような変化ではなく、もともとの原画がそういう御絵であったかのように変化しているのです。

「これはたまらない。こんな調子でどんどん涙を流されたら、そのうちに血の涙になるかもしれない」と思うと、ぞっとしました。「イエズスさま、どうかもう涙をお流しにならないでください」という一念で、その夜は徹夜で祈り続けました。神さまからのお恵みの意味について、全く分かっていなかったのです。もっとも、いまでも十分理解できているとは言い難いのですが。

 翌6月8日(月)の夜明け頃です。今度は、光は見ませんでしたが祈っているときに急に主の臨在を感じ、あの銀の鈴を振るような女性の声で「灘教会、6月」と言われるのを聞きました。「死ぬ覚悟で行動しなさい」とも言われました。

意を決して、6月9日(火)の灘教会の夕方のミサに出席したあと、O夫人の御紹介で浜崎伝神父様に事情をお話しして受洗希望を述べました。神父様は私がカトリック要理を勉強したかどうか尋ねられてから、「あなたのような人は、むしろできるだけ早く洗礼を受ける方が良いと私は思います。受洗予定日はいつにされますか?」とさっそく促されるので、カトリック手帖を繰ってみますと、6月27日(土)に、「聖母のみ心」と小さく記されています。

私はファティマのマリアさまの本を読んだのがきっかけで教会へ来るようになったのだから、「洗礼を受けるのはこの日だ」と心が決まってそう申し上げました。私の横でなりゆきを見守っていたO夫人がびっくりされて、「実は、この前の聖霊降臨の日曜日から聖母のみ心に家族を奉献したいと考えていたので、ぜひこの方の洗礼式に続いて私の家族の奉献の式をしてほしい」と言い出されました。

 これで、やっと洗礼を受けられることになったわけですが、気掛かりなのは洗礼を授かったあと聖体拝領にどういう態度でのぞめば良いかということです。聖体拝領の仕方について真剣に導きを求めて数日間ロザリオを祈り続けました。

6月12日(金)の早朝、お祈りのあとで急にひらめいて、そばにあった聖書(フェデリコ・バルバロ神父訳、講談社1988年5月第7刷)を、目をつぶったまま左手でパッと開いて右手の人差し指をページの上に突き立てました。目を開いてみると、人差し指はフィリッピ人への手紙第2章の10節と11節の真上に置かれていました。

 そこにはこうあります。「それはイエズスのみ名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみなひざをかがめ、すべての舌が父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」。

 フランシスコ会聖書研究所訳(1989年4月改訂15刷)のこの箇所の註には「イザヤ45:23、ローマ14:11参照」とあります。バルバロ神父訳で参照箇所を見てみますと、イザヤの書45章23節には「私自身を指して誓ったことば、私の口から出るのは真理であり、取り消せぬことばである。そうだ、私の前にすべてのひざはかがみ、舌は、私によって誓いを立てる」とあり、ローマ人への手紙14章11節には「『主は言われる。私の命にかけて誓う、すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌は神を賛美する』と書き記されている」。さらに同12節には「こうしておのおのは神に自分のしたことを報告するであろう」とあります。

 私はすぐに、「わかりました。たとえ私のほかに誰もひざまずかなくなっても、私だけは御聖体をひざまずいて口で拝領することをお約束します」と決心しました。無神論や他の宗教等への遍歴が長く、中年になってからやっと教会に辿り着いたため心が不安定で葛藤の多い私は、3年前の最初の回心以来の経過をふり返って考えてみても、聖書のみ言葉に基盤を置くのでなければ長期間信仰を維持してゆくのは困難だと感じられるからです。

しかし、実際には、ひざまずいたときに神父様から「立ちなさい」と命じられれば、立って一礼して聖体拝領をあきらめて自分の席へ戻りますし、ひざまずいては貰えない神父様だとわかっていれば遠慮して、隅の方で目立たないようにミサに出席しているのが現状です。

 その日、6月12日(金)の夕方にK神父様からお電話があり、「8月15日に受洗希望の方の入門式が6月14日に夙川教会でありますが、どうされますか?」とお尋ねになるので、恐縮しながら灘教会で浜崎神父様から受洗することを報告してお詫び申し上げますと、「それでいいです」と快く了承してくださいました。

 6月16日(火)の灘教会の夕方のミサに出席して、浜崎神父様に受洗の準備について尋ねますと、「『公教会祈祷文』というお祈りの本はお持ちですか? あの中の『聖霊の御降臨を望む祈』を毎日となえなさい」とご教示頂きました。そこで毎日、朝と晩のお祈りの時に教えられたお祈りもとなえるようにすると、動揺しがちだった心も少しずつ落ち着いてくるような気がしました。

 6月27日(土)、いよいよカトリックの洗礼を受ける日がきました。私は、洗礼を受けて御聖体を拝領したら、そのまま死んでしまうかもしれないと思っていました。「死ぬ覚悟で行動しなさい」と言われていたからです。家族や、道行く人々や、街道や並木、夕ぐれの光を浴びている雲や青空に、それとなく心の中で別れを告げながら灘教会の午後6時のミサへと向かいました。

 浜崎伝神父様から私はカトリックの洗礼と堅信の秘跡を同時に受けました。無事に聖体拝領も済んだあと、O夫人の御家族や出席者の方々と一緒に聖母マリアの汚れなきみ心への奉献を行ないました。出席者それぞれが百合の花を1本持ってくることになっていましたが、打ち合わせを知らなかった人たちにもぴったり1本ずつ12名全員に百合の花がゆきわたったのは不思議です。

 式が終わってから「おめでとう」と言うYさんに、「洗礼を受けて御聖体を拝領したら、そのまま僕は死ぬかもしれないと思っていました」ともらすと、Yさんは「あなた、何を言ってるのよ」とくすくす笑い出し、笑いが止まらずに「おほほ、あはは」と笑い続けるので、「何がそんなに可笑しいんですか?」ときくと、「あなた、それじゃまるで聖人じゃないの。そんなに簡単に天国へ行けるもんですか。これからが長いのよねぇ」と言いながら笑い続けています。私は「そんなものか」と、なんだかホッとしたような、気が抜けたような気持ちになりました。

 人間とは勝手なもので、信仰が維持してゆけないからお恵みが欲しいとねだったのに、お恵みが大きすぎてつらければ文句を言います。受洗後まもない早朝、再び主の臨在を強く感じたので平伏して、「いくら帰ってきた放蕩息子を喜ばれるにしても、これではあまりにお恵みが大きすぎるのではないでしょうか。たえてゆくのがやっとです。こういうお恵みは、普通は修道院の奥まった部屋で与えられる種類のものではないのですか?」と申し上げました。すると、銀の鈴を振るように美しい女性の声で「教会が緊急事態だからです」と答えられました。それ以上は何も言われなかったので、私には教会のどういう点を指して言われたのかよくわかりません。

 同じ時か別の時かはっきり覚えていませんが、「これまでのことをすべて書きなさい」とも言われました。私のように出版や編集に関わる仕事をしてきた者にとって、「書く」とは単に記録にとどめたり報告書を提出することではなく、雑誌等の出版物へ公に発表することまでを意味します。

 勇気がなかったのです。ブルー・アーミ入会時のお手紙のやり取りがきっかけで、志村辰弥神父様へは少し詳しい報告書を提出しましたが、そのコピーを読み返してみても、いかに私の心が動揺していたかありありと分かりますし、キリスト教の神秘的な体験について殆ど無知で判断の基準を持ち合わせていなかったため、報告書の体を成さない日記風の要領を得ない文章になっています。キリスト教が根付いていない日本の現代社会で、神秘的な体験を発表しても変な目で見られるだけだし、社会的な信用を失いかねないという恐れもありました。結局、与えられた義務をぐずぐずとのばしのばししているうちに十数年が過ぎてしまいました。

 2005年2月に、ファティマで聖母の御出現を受けられたルチア修道女が帰天されたのを知り、「急がねば」と直感して慌て始めました。もうこれ以上は引きのばせないという思いで報告文を書いてきた次第です。どうか、われらの主イエズス・キリストが私の弱さをも御計画のうちに入れておられて、すべてが神の聖旨の通りに取り計らわれることを願うばかりです。これで、私の最初の回心からカトリック受洗までの報告を終わらせていただきます。

 この手記を読んだ方が、聖母マリアの汚れなきみ心のお働きのために、少しでも真剣にロザリオを祈る励みにして頂ければ、本当に幸いに存じます。

(ファティマ90周年・2005年5月から2007年10月、祈り記す)



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Posted by soyokaze at 18:08 │報告文集