2010年07月27日
教会を離れる
夙川教会は阪急電車の夙川駅から歩いて5分ほどの場所で、堂々としたゴシック風の建物です。小説家の遠藤周作氏の子供時代の遊び場だったことや受洗教会としても有名で、阪神間では名所の1つに数えられています。聖堂に入ればステンドグラスが美しく、祭壇も長椅子も歴史を感じさせるもので、「やっとカトリックらしい教会に辿りついた」と何だかホッとするような気持ちになります。
夙川教会の日曜日のミサと「カトリック要理」の講義には、1989年8月6日から1990年7月29日まで通いました。1年かけてピンク色の文庫版『カトリック要理(改訂版)』(中央出版社1989年第24刷)を1通り学びました。担当のK神父様の講義は非常に懇切丁寧で理解しやすく納得できるものでした。
北浜教会で知り合ったYさんには日曜日の午後を、あちらの教会のバザー、こちらの修道会の催しごと、あるいはロザリオの祈りのグループや集会にとあちこち連れ歩いて頂きました。Yさんは古くからの熱心な信者で顔が広く、おかげで教会の現状をひとわたり見学してさまざまな人々の意見を聞くことが出来ました。カトリック教会は歴史が長いだけあって実に幅があり多様性に富んでいると思います。ただ、ミサのあり方や人々の意識は神さまが中心ではなく、なぜか人間の考えが中心になっているように感じました。
古い手帳を見てゆきますと、1990年7月29日の日付を最後に、つまり、いよいよ洗礼を希望するかどうかという段階になってピタッと教会に行かなくなっています。信者の方々との個人的な付き合いは続いていたようで、数か月に1度位の割合で懐かしい名前が記されたり、集会の日時が書きとめられています。でも、それも更に1年を過ぎたあたりで跡絶えています。この時期に私が何をしていたか調べてみますと、東京から大阪へ帰って間もない頃でしたから仕事探しやライフワークの俳句の研究に時間を費やすのは勿論ですが、その他に書道や英会話、学生時代に勉強不足だったカウンセリング技術、果てはヨガや参禅にまで手を伸ばしています。まるで、もがいているような感じです。
なぜ教会に行かなくなったのでしょうか? いろんな要因があって単純には言えませんが、なによりも、私にとって最初の回心の時のショックが大きすぎたためだと思います。カトリック教会が、私の受けたショックをうまく吸収してくれそうに思えなかったということです。中年になるまで神さまの存在が実在するとは考えていなかった私にとって、考え方を180度転換しなければならない体験は、その感覚に慣れるだけでも10年以上かかる重いものでした。
言葉でうまく表現しにくいことですが、喩えを使って説明を試みてみます。私の最初の回心の出来事は、第三者には単なる偶然の重なりのように見えるかもしれません。しかし、そこには条件付きで願を掛けるという内的要因が前提としてあり、ロザリオの祈りという働きかけがこちら側からなされたのです。ですから当事者には決して偶然とは受け止められないわけです。水の中を泳いでいる魚は自分が水の中にいることを感じていないでしょうが、何かの拍子に水面から上へ跳ね上がったとたんに、それまで水の中にいたことを感じざるをえなくなります。水面から上へ跳ね上がってみるきっかけが前提条件、跳ね上がるための尾の力がロザリオの祈りの蓄積、水面より上に跳ね出た瞬間が恵みの体験、水そのものは神の愛ということになります。神学を勉強したことはありませんので、この喩えが適切かどうかわかりません。
いちど水面より跳ね上がってから水に戻った魚は、思ってもみなかった結果にショックを受けざるをえません。それ以後は、何をしているときも神さまの臨在を感じるようになります。部屋の中にたった1人でいるときも、風呂に入っていたりトイレに入っているときにも神さまの眼差しを感じますから、これはかなりキツイです。四六時中、神さまへの畏れ、ショックからくる未知への不安とストレスを耐え忍んでゆかねばなりません。教会に通えば、このショックが和らぐかとはじめは期待していましたが、実状からみてクッションの役割が十分なされていないとわかれば、あとは逃げるしかありません。できるだけ忙しくスケジュールをつめ込んだり、気を紛らわす努力をするようになります。こうして少しずつ緊張をほぐしていってキリスト教から遠ざかってゆき、教会を離れて1年を経た頃には中国思想に興味が移っていました。キリスト教より老子や荘子の思想の方がずっと気楽だから、自分の性格には合っているなどと考えるようになりました。二度目の回心によって私が再びカトリック教会に戻ってくるためには、別の新たな恵みの体験が必要だったのです。
Posted by soyokaze at 18:15
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