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soyokaze

2010年07月27日

二度目の回心


 1992年の2月の初めのことです。日時がはっきりしませんが、手帳にメモするだけの気持ちの余裕もなかったのです。真夜中に、自宅(大阪市)の私の部屋の天井を突き抜けてバリバリッと稲妻が落ちてくるような光と音にびっくりして飛び起きました。部屋隅の祭壇の棚の上へ、確かに何かが落ちてきたのです。おそるおそる祭壇の前にひざまずくと、天井より高い空の方からゴロゴロと雷の鳴るような音がしました。耳を澄ますと、N氏の声で「この人にも、ずいぶん世話になったからなあ」と言っているように聞こえます。私はふるえながら祭壇の聖母子像を仰いでロザリオを祈り始めました。すると、聖母子像からオーラのように殆ど目に見えないほどの柔らかく青い光がフワッと同心円状に広がってきます。その光のようなものが私の胸のところまで広がってきて触れたと思ったとたんに、胸の中にえも言われないあたたかい感情が湧き起こりました。春の野原のまだ咲きそめたばかりの花々を一杯詰め込んだような、のどかな1日のうちにおよそ体験できる最上の気分と申せましょうか。そのとき、私は悟りました。「愛」とは人間の頭が考え出した抽象的な観念や概念ではなく、神さまから与えられる恵みの実体なのだと。

 透明な水の中にインキを1滴垂らすと、最初は濃い部分が固まりになっていますが暫くすると周囲の水に溶けて薄れてゆきます。それと同じように「愛」のあたたかい感情を胸の中に維持できたのはほんの一時でしたが、悟るには十分でした。人間は皆、いや世界全体は神の愛という恵みの中に生きて呼吸しているのです。しかし、「愛」という恵みの濃度は場所によって、人それぞれによって、また同じ人でもその時々によって濃い時と薄い時があるのです。その濃度は、おそらく神さまにいかに祈っているか、いかに自我を捨てて純粋に神さまに奉仕しているかによって決まってくるのだろうと思います。

 私はふるえおののきながら夜が明けるまでロザリオを祈り続けました。そして、1989年3月に初めてカトリック教会に行ってからの3年の経過を冷静にふり返ってみて愕然としました。人間の理解力を超えた恵みを受けて、あれほどローマ・カトリックこそ本物だと確信して教会に行ったのに、教会が自分のショックを受け止めてくれそうになければたちまち逃げ出してキリスト教からも離れてゆき、今では中国思想の方が面白いなどと考えている。人間の心とはなんと脆くてはかなく変わりやすいものかと呆れ果てました。ほとほと自分の心が恥ずかしくて情けなく、これでは自分で自分自身さえ信用できるものではないと感じました。同時に、何としてでもカトリックの洗礼を受けなければと再び発心したものです。

 ほどなく、N氏の訃報が届きました。私は、頭が変になったと思われるのを覚悟の上で、N氏の奥さんに真夜中の出来事を話しました。奥さんは電話の向こうで少し考えてから、それは丁度、N氏の臨終前の昏睡状態に陥った時間と重なると思うと述べられました。

 ここで私はN氏について証言しなければなりません。N氏は北野教会で知り合った年配の男性で、戦争で片足をなくされた方です。まだ私が北野教会へ通い始めたばかりの頃、聖体拝領に行くのに杖を突いて歩きにくそうにしておられたので、肩を貸して付き添ってあげました。それから毎回、聖体拝領のときには付き添うようになりました。「僕は手による聖体拝領は間違いだとずっと思っている。幸いにも右手は杖を突いているからふさがっている。君が肩を貸してくれたら左手もふさがるから、神父様はいやでも口にくれなくちゃならない。その意味でも助かるよ!」と言われたのを覚えています。
 手による聖体拝領については、ある時、N氏が「形より中身が大事と言うけれど、形が崩れたら中身まで流れ出してしまった。いまいったい誰が聖体拝領の前に深々と頭を下げている? いったい誰が前もって手をきれいに洗っている? いったい誰がきちんと告解している? 告解をお願いしたら神父様たちまで、あとであとでと邪魔くさそうに逃げる始末だ!」と、吐き出すように言われたことも印象に残っています。

 N氏は、日曜日に習慣のように教会に通うだけではなく、その行いにおいても日常の生活においても申し分のないキリスト者でした。体が不自由な人々のために義足や介助器具を製造する会社を経営されていましたが、そういう人々のために旅行サークルを世話したり色々な福祉活動にも熱心にかかわっておられました。氏のスケジュールを聞いて「よくそんなに活動的になれますねぇ!」と驚く私に、「十戒をきっちり守れば精力が余って仕方がないから、自然に活動的になるんだよ」と笑って答えられました。北野教会へ行かなくなってからも、N氏の家で催されるみ言葉の分かち合いの集いに何度か参加したことがあります。氏は「十戒を守るのは人として当たり前のことだ。その上で、どれだけ愛の業を実践できるかが課題なのだ」と、いつも話しておられました。



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Posted by soyokaze at 18:14 │報告文集