2010年07月27日
目次
——ある回心から受洗まで
幼いイエズスの聖テレジアに捧ぐ
「神のもろもろの御業は明らかにされ、畏敬の念をもって宣べ伝えられるべきです」トビト記12: 7
「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」テサロニケの信徒への手紙1 5:19-21
(新共同訳)
目 次
1.最初の回心
2.二つの世界の夢
3.教会への違和感
4.教会を離れる
5.二度目の回心
6.光の恵みと涙の御絵
7.少年イエスの涙
8.疑念と当惑
9.カトリック受洗
あとがき
幼いイエズスの聖テレジアに捧ぐ
「神のもろもろの御業は明らかにされ、畏敬の念をもって宣べ伝えられるべきです」トビト記12: 7
「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」テサロニケの信徒への手紙1 5:19-21
(新共同訳)
目 次
1.最初の回心
2.二つの世界の夢
3.教会への違和感
4.教会を離れる
5.二度目の回心
6.光の恵みと涙の御絵
7.少年イエスの涙
8.疑念と当惑
9.カトリック受洗
あとがき
2010年07月27日
最初の回心
私のキリスト教カトリックへの回心は、祖母の病気と死をきっかけに始まりました。私はおばあさんっ子で、幼い日々の頃から、一緒に住んでいたこの母方の祖母によくかわいがってもらった記憶があります。家からかなり遠くの病院に入院した祖母を毎日見舞うわけにもゆかず、何もしてあげられないという思いを抱いておりました。そんなある日、古書店でなにげなく手にした本で「ロザリオの祈り」を知りました。それはファティマの聖母について書かれた本でしたが、3人の幼い牧童に出現されたマリアさまがロザリオの祈りを祈ってくれる人々を求めておられると記されていました。私はその頃は、まだキリスト教の信仰を持っておりませんでしたので、こういう出来事が本当にあったのだろうかと疑心暗鬼の状態です。「さわらぬ神に祟りなし」という言葉も思いうかびます。でも祖母のことがありました。祖母はもう80歳をこえていましたし、病状を考えても先はあまり長くないように思えました。それでも私としては、何かしてあげられることがあればしてあげたいという気持ちがあったのです。
私は、よく考えたあと、マリアさまに願をかけて条件付きで祈ってみることにしました。「祖母の救霊のためにロザリオの祈りを祈ります。カトリック教会に行ってみることにしますから、祖母の救霊のしるしを明らかに示してください」というものでした。そして手帳のスケジュールを調べると、教会に行くことのできる日曜日は1ヶ月ほど先でした。私は、そう決めた以上は真剣に祈りました。電車に乗っているときも歩いているときも、ロザリオの各玄義を黙想しながら祈り続けました。平均して1日に10環ほどは祈っていたと思います。といっても、ロザリオの数珠を所持していなかったので、自分の手の指を折りながら祈ったのです。まもなく祖母は昏睡状態に陥りました。人工呼吸器を口にはめられ、苦しそうにあえぐ祖母を見舞うのは気持ちの重いものです。この状態がいつまで続くのだろうと思ううちに、マリアさまとの約束の日曜日がやってきました。驚いたことにその日の午前6時過ぎに病院から電話があり、祖母の病状が急変して午前6時丁度頃に亡くなったことが知らされました。父母や弟はすぐ病院に行きましたが、私はマリアさまとの約束があったので、まずカトリック教会に行ってから病院に駆けつけることにしました。臨終には間に合わなかったのだから、ともかく教会に行こうと思ったのです。何か予感めいたものが働いたことも事実です。この時から、神さまに対する大きな驚きとショックの連続が私にふりかかってきたのです。
その日は1989年(平成元年)3月19日の日曜日、私が36歳のときです。教会に行ってみると、大勢の人々がオリーブの枝を手に持って庭に並んでいました。お祝いの日なのだろうかと思いながらミサというものに生まれて初めて出席し、終わってから神父様に、祖母のことや私が教会に来た事情について話すと、「それは良い日に亡くなられました。おめでとう!」といってオリーブの枝を2本手渡されました。私は、何がおめでたいのかわけもわからないままそれを受け取り、急いで病院に駆けつけました。病院では、皆が待っておりました。私は、まだ棺に納められていない祖母の遺体の胸もとに、教会で貰ったオリーブの枝の1本を置きました。
祖母の葬式は、檀家だった京都のお寺であげました。もし、未信者でも洗礼を授けることができると知っていれば、私は祖母に洗礼を授けたかもしれません。しかし、生まれて初めてカトリック教会に行った日が祖母の亡くなった日だったのです。喪服を着てお寺に行く途中、タクシーの運転手さんが「こんな日にお葬式ですか?」と尋ねるので、「はあ、そうですが」と言うと、「お彼岸ですよ! おめでたいですねぇ。普通は大抵お彼岸をよけてお亡くなりになりますがねぇ」と驚かれました。お葬式は親族ばかりの密葬でしたが、大叔母はプロテスタントの伝道師でしたので、私の話を聞くと「じゃあ、讃美歌も歌いましょう」ということになり、お坊さんのお経が終わってから皆で讃美歌を歌いました。お彼岸のお寺に庭に、讃美歌の声があふれました。
統計に詳しい人なら、この話はあまりにも出来すぎていると思われるでしょう。私自身も、なんだか出来すぎだと感じないわけにはいきませんでした。3月19日が、本来はマリアさまの浄配で臨終の守護聖人である聖ヨゼフさまの祝日であり、私が初めて行った教会(大阪のカトリック北野教会)が聖ヨゼフさまに捧げられた教会であるとわかった時は「これは、もうあかんわ!」と観念しました。求道者として私がカトリック教会に通うようになったきっかけは、このような次第でした。
2010年07月27日
二つの世界の夢
私は薄暗い大広間のような場所にいました。酒池肉林の宴会の最中で、テーブルには料理や果物が山盛りに積まれ、そのまわりではあられもない姿の男女が恥かしげもなく抱き合っていました。まともに服を着ているのは私一人だけで、何だか場違いな所へ迷い込んでしまった気持ちになりました。呆然として周囲を見回していましたが、そこに渦巻くのは動物的な欲情ばかりなのに気が付き、黙ってその場を立ち去りました。
次に、私は屋外の明るく広々とした場所にいました。大きな事故の現場らしく、人々が救助のために駆けまわっていました。活動の指図をしている人、負傷者たちの世話をしている人々、彼らはみなわれを忘れて必死でしたが、その態度にも顔の表情にも精神的な輝きが感じられました。
気品のある1人の婦人が近寄ってきて私に話しかけました。
「あなたがご覧になったのは、人々が死後に行く二つの世界です。一つ目は、欲と快楽の世界。二つ目は、愛と美の世界です。しかし、二つ目の世界の扉は、もはや閉じられかけています」。
驚いて、私は反論しました。
「でも、善行を積んでいる人は沢山いるはずです」。
すると、婦人は静かに微笑みました。
「ほとんどの人々は、神を信じておりません。彼らは職業として、あるいは自らの心の慰めのために善行を行うのです」。
私は、さらに反論しました。
「でも、宗教を信じている人は大勢おります」。
不思議な婦人は、微笑みながら答えました。
「自分が救われたいためにではなく、なんらかの見返りをも求めずに信仰している方が、どれほどおられるでしょうか」。
その答えに絶句して、私は目が覚めました。
上記の夢の記録は、心覚えのメモなので日付もはっきりしないものですが、私の最初の回心のあと教会に通い始めて熱心にロザリオを祈っていた1989年から1990年頃に見た夢という記憶があります。まだカトリックの洗礼を受ける前の時期です。十数年を経たいま読み返してみても、何か私個人の範囲を超えた問題が提示されているように感じますので、報告することにしました。
2010年07月27日
教会への違和感
1989年3月からカトリック教会(大阪の北野教会)に通い始めた次第についてはすでに述べました。その後、順調にストレートに洗礼を受けるに至ったわけではなく、私の場合は紆余曲折を経ております。
北野教会は黒っぽい石造りの素朴な建物ですが、道路をへだてたお隣には摩天楼の高層建築がそびえていて非常に対照的です。ミサに出席したあと、戦争で片足をなくされたN氏とファティマやその他の聖母出現について議論しながら大阪駅までよく歩きました。日曜日の午後という開放的な気分で巨大な高層建築に囲まれた広い道路を歩きながら、70年前の幼い羊飼いたちの出来事について話すというアンバランスな感覚にめまいがしそうでした。しかし、これこそが現実であり、キリスト者として克服してゆかねばならない現代社会の厳しさなのだと今では考えております。
最初に頂いた恵みが大きすぎたためか、教会に行けば敬虔で熱心な信仰者ばかりが集まっておられるという輝かしいイメージは、徐々に色褪せてゆきました。私は二十代の半ばに仏教に凝っていたことがあって、「現代に仏教を復興させるためには、お寺の境内を開放してロックコンサートを催せばよいのだ。そうすれば、若い世代の人たちも仏教に興味を抱くようになるだろう」などと安易なことを考えていました。実際、近年ではそのような試みも行われているようです。その影響なのか、神聖であるべきカトリック教会のミサの最中にギター演奏が行われると、若い頃にそんなことを考えていた罰を受けているような気持ちになります。
教会で早く洗礼を受けたいという希望も、なかなか実現困難でした。北野教会では、神父様が替わられたばかりで要理の時間がないから淀屋橋の北浜教会へ行くようにと言われました。そこで、北浜教会の木曜日午後7時からの信仰講座に通い始めましたが、伝統的なカトリックの教義を教えてもらえるのではなく、心理学の初歩的な講義を受けながら人間関係について分かち合いをするというものでした。この講座に1年間通えば洗礼を受けられると聞いて、私は驚愕しました。大学で心理学を専攻し、飽き足らずに仏教や新興宗教、ニューエイジからオカルトまで遍歴してきた私には、信仰講座の内容は全く何の意味もないものだったからです。「人間の理解力を超えた恵みを受けて、やっとローマ・カトリックこそ本物だという確信を得て来てみれば、この有様だ。ああ、若い頃に自分の好き勝手に生きたいために神様が創られたキリスト教を無視してきた報いを、いま受けているのだ!」と心の中で嘆きました。
古い手帳のメモを調べますと、北野教会の日曜日のミサに通っていたのは1989年の3月19日から7月の23日までです。北浜教会の信仰講座には、同年4月20日から6月8日まで出席しています。
北浜教会では火曜日と金曜日に午後5時半から、土曜日には午後6時からミサがありました。当時、熱心だった私は時間があれば夕方のミサにも出席しました。ある日、聖体拝領の列の最後に2人の女性がひざまずいて口で拝領されるのを目にしました。お菓子のように手で貰っている他の人々と違って、2人のひざまずく姿がなぜか神々しく、周囲の空気が光って見えました。「あの人たちは一体どういう人なのだろう。どこか遠い地方から来られたのだろうか」と興味を持ちましたが、教会の実状に警戒心を抱き始めていたので黙って後ろの方の席で祈っていました。すると、2人のうちの若いIさんが「ロザリオなら一緒に祈りませんか?」と声を掛けてくれました。聖堂の一番前の聖母像に近い席で3人一緒にロザリオを祈りました。
北浜教会は住友信託銀行本店ビルの6階と7階(最上階)にありました。6階が会議室と事務所で、7階が聖堂でした。銀行や保険会社、証券会社などが立ち並ぶ淀屋橋の真ん中です。帰りに3人で喫茶店に寄りましたが、そんな街角の夕暮れの喫茶店ですから、話題が黙示録的な雰囲気になるのも仕方がないのかもしれません。未信者の私から見ても教会の世俗化は行き過ぎだと思うこと、カトリックの正統な教義を勉強しないままで洗礼を受けることに不安を感じていることなどを話すと、年配のYさんに「それじゃあ、ちょっと遠いけれど夙川教会へ行ってみたら」と勧められました。毎週日曜日のミサの後に「カトリック要理」の時間があるそうです。それを聞いて、とにかく夙川教会へ行ってみようと私は決心しました。
2010年07月27日
教会を離れる
夙川教会は阪急電車の夙川駅から歩いて5分ほどの場所で、堂々としたゴシック風の建物です。小説家の遠藤周作氏の子供時代の遊び場だったことや受洗教会としても有名で、阪神間では名所の1つに数えられています。聖堂に入ればステンドグラスが美しく、祭壇も長椅子も歴史を感じさせるもので、「やっとカトリックらしい教会に辿りついた」と何だかホッとするような気持ちになります。
夙川教会の日曜日のミサと「カトリック要理」の講義には、1989年8月6日から1990年7月29日まで通いました。1年かけてピンク色の文庫版『カトリック要理(改訂版)』(中央出版社1989年第24刷)を1通り学びました。担当のK神父様の講義は非常に懇切丁寧で理解しやすく納得できるものでした。
北浜教会で知り合ったYさんには日曜日の午後を、あちらの教会のバザー、こちらの修道会の催しごと、あるいはロザリオの祈りのグループや集会にとあちこち連れ歩いて頂きました。Yさんは古くからの熱心な信者で顔が広く、おかげで教会の現状をひとわたり見学してさまざまな人々の意見を聞くことが出来ました。カトリック教会は歴史が長いだけあって実に幅があり多様性に富んでいると思います。ただ、ミサのあり方や人々の意識は神さまが中心ではなく、なぜか人間の考えが中心になっているように感じました。
古い手帳を見てゆきますと、1990年7月29日の日付を最後に、つまり、いよいよ洗礼を希望するかどうかという段階になってピタッと教会に行かなくなっています。信者の方々との個人的な付き合いは続いていたようで、数か月に1度位の割合で懐かしい名前が記されたり、集会の日時が書きとめられています。でも、それも更に1年を過ぎたあたりで跡絶えています。この時期に私が何をしていたか調べてみますと、東京から大阪へ帰って間もない頃でしたから仕事探しやライフワークの俳句の研究に時間を費やすのは勿論ですが、その他に書道や英会話、学生時代に勉強不足だったカウンセリング技術、果てはヨガや参禅にまで手を伸ばしています。まるで、もがいているような感じです。
なぜ教会に行かなくなったのでしょうか? いろんな要因があって単純には言えませんが、なによりも、私にとって最初の回心の時のショックが大きすぎたためだと思います。カトリック教会が、私の受けたショックをうまく吸収してくれそうに思えなかったということです。中年になるまで神さまの存在が実在するとは考えていなかった私にとって、考え方を180度転換しなければならない体験は、その感覚に慣れるだけでも10年以上かかる重いものでした。
言葉でうまく表現しにくいことですが、喩えを使って説明を試みてみます。私の最初の回心の出来事は、第三者には単なる偶然の重なりのように見えるかもしれません。しかし、そこには条件付きで願を掛けるという内的要因が前提としてあり、ロザリオの祈りという働きかけがこちら側からなされたのです。ですから当事者には決して偶然とは受け止められないわけです。水の中を泳いでいる魚は自分が水の中にいることを感じていないでしょうが、何かの拍子に水面から上へ跳ね上がったとたんに、それまで水の中にいたことを感じざるをえなくなります。水面から上へ跳ね上がってみるきっかけが前提条件、跳ね上がるための尾の力がロザリオの祈りの蓄積、水面より上に跳ね出た瞬間が恵みの体験、水そのものは神の愛ということになります。神学を勉強したことはありませんので、この喩えが適切かどうかわかりません。
いちど水面より跳ね上がってから水に戻った魚は、思ってもみなかった結果にショックを受けざるをえません。それ以後は、何をしているときも神さまの臨在を感じるようになります。部屋の中にたった1人でいるときも、風呂に入っていたりトイレに入っているときにも神さまの眼差しを感じますから、これはかなりキツイです。四六時中、神さまへの畏れ、ショックからくる未知への不安とストレスを耐え忍んでゆかねばなりません。教会に通えば、このショックが和らぐかとはじめは期待していましたが、実状からみてクッションの役割が十分なされていないとわかれば、あとは逃げるしかありません。できるだけ忙しくスケジュールをつめ込んだり、気を紛らわす努力をするようになります。こうして少しずつ緊張をほぐしていってキリスト教から遠ざかってゆき、教会を離れて1年を経た頃には中国思想に興味が移っていました。キリスト教より老子や荘子の思想の方がずっと気楽だから、自分の性格には合っているなどと考えるようになりました。二度目の回心によって私が再びカトリック教会に戻ってくるためには、別の新たな恵みの体験が必要だったのです。
2010年07月27日
二度目の回心
1992年の2月の初めのことです。日時がはっきりしませんが、手帳にメモするだけの気持ちの余裕もなかったのです。真夜中に、自宅(大阪市)の私の部屋の天井を突き抜けてバリバリッと稲妻が落ちてくるような光と音にびっくりして飛び起きました。部屋隅の祭壇の棚の上へ、確かに何かが落ちてきたのです。おそるおそる祭壇の前にひざまずくと、天井より高い空の方からゴロゴロと雷の鳴るような音がしました。耳を澄ますと、N氏の声で「この人にも、ずいぶん世話になったからなあ」と言っているように聞こえます。私はふるえながら祭壇の聖母子像を仰いでロザリオを祈り始めました。すると、聖母子像からオーラのように殆ど目に見えないほどの柔らかく青い光がフワッと同心円状に広がってきます。その光のようなものが私の胸のところまで広がってきて触れたと思ったとたんに、胸の中にえも言われないあたたかい感情が湧き起こりました。春の野原のまだ咲きそめたばかりの花々を一杯詰め込んだような、のどかな1日のうちにおよそ体験できる最上の気分と申せましょうか。そのとき、私は悟りました。「愛」とは人間の頭が考え出した抽象的な観念や概念ではなく、神さまから与えられる恵みの実体なのだと。
透明な水の中にインキを1滴垂らすと、最初は濃い部分が固まりになっていますが暫くすると周囲の水に溶けて薄れてゆきます。それと同じように「愛」のあたたかい感情を胸の中に維持できたのはほんの一時でしたが、悟るには十分でした。人間は皆、いや世界全体は神の愛という恵みの中に生きて呼吸しているのです。しかし、「愛」という恵みの濃度は場所によって、人それぞれによって、また同じ人でもその時々によって濃い時と薄い時があるのです。その濃度は、おそらく神さまにいかに祈っているか、いかに自我を捨てて純粋に神さまに奉仕しているかによって決まってくるのだろうと思います。
私はふるえおののきながら夜が明けるまでロザリオを祈り続けました。そして、1989年3月に初めてカトリック教会に行ってからの3年の経過を冷静にふり返ってみて愕然としました。人間の理解力を超えた恵みを受けて、あれほどローマ・カトリックこそ本物だと確信して教会に行ったのに、教会が自分のショックを受け止めてくれそうになければたちまち逃げ出してキリスト教からも離れてゆき、今では中国思想の方が面白いなどと考えている。人間の心とはなんと脆くてはかなく変わりやすいものかと呆れ果てました。ほとほと自分の心が恥ずかしくて情けなく、これでは自分で自分自身さえ信用できるものではないと感じました。同時に、何としてでもカトリックの洗礼を受けなければと再び発心したものです。
ほどなく、N氏の訃報が届きました。私は、頭が変になったと思われるのを覚悟の上で、N氏の奥さんに真夜中の出来事を話しました。奥さんは電話の向こうで少し考えてから、それは丁度、N氏の臨終前の昏睡状態に陥った時間と重なると思うと述べられました。
ここで私はN氏について証言しなければなりません。N氏は北野教会で知り合った年配の男性で、戦争で片足をなくされた方です。まだ私が北野教会へ通い始めたばかりの頃、聖体拝領に行くのに杖を突いて歩きにくそうにしておられたので、肩を貸して付き添ってあげました。それから毎回、聖体拝領のときには付き添うようになりました。「僕は手による聖体拝領は間違いだとずっと思っている。幸いにも右手は杖を突いているからふさがっている。君が肩を貸してくれたら左手もふさがるから、神父様はいやでも口にくれなくちゃならない。その意味でも助かるよ!」と言われたのを覚えています。
手による聖体拝領については、ある時、N氏が「形より中身が大事と言うけれど、形が崩れたら中身まで流れ出してしまった。いまいったい誰が聖体拝領の前に深々と頭を下げている? いったい誰が前もって手をきれいに洗っている? いったい誰がきちんと告解している? 告解をお願いしたら神父様たちまで、あとであとでと邪魔くさそうに逃げる始末だ!」と、吐き出すように言われたことも印象に残っています。
N氏は、日曜日に習慣のように教会に通うだけではなく、その行いにおいても日常の生活においても申し分のないキリスト者でした。体が不自由な人々のために義足や介助器具を製造する会社を経営されていましたが、そういう人々のために旅行サークルを世話したり色々な福祉活動にも熱心にかかわっておられました。氏のスケジュールを聞いて「よくそんなに活動的になれますねぇ!」と驚く私に、「十戒をきっちり守れば精力が余って仕方がないから、自然に活動的になるんだよ」と笑って答えられました。北野教会へ行かなくなってからも、N氏の家で催されるみ言葉の分かち合いの集いに何度か参加したことがあります。氏は「十戒を守るのは人として当たり前のことだ。その上で、どれだけ愛の業を実践できるかが課題なのだ」と、いつも話しておられました。
2010年07月27日
光の恵みと涙の御絵
この項より、古い手帳のメモだけでなく、当時ブルー・アーミの日本代表を務めておられた志村辰弥神父様へ提出した報告書のコピーをも確認しながら書き進めることとなります。
二度目の回心によって再び夙川教会へ通いはじめたのは、1992年の2月9日(日)からです。早朝、私は目覚まし時計のベルに手をのばして止めてから布団の中でぐずぐずしていました。教会へ行こうと決心したものの、日曜日はゆっくり朝寝をしたいという未練があり、あたたかい布団の中でつい睡魔に負けてしまいました。すると、また時計が鳴ったのです。これにはびっくりして飛び起きました。
その目覚まし時計は構造上、1度ボタンを押してベルを止めればセッティングし直さない限り2度鳴るようには出来ていなかったからです。時計を見ると急いで家を出てもミサには遅刻で、カトリック要理に間にあうかどうかという時間です。家族に目覚まし時計に触ったのか尋ねてみましたが、みんな「知らない」と答えます。私は慌てて朝食も取らずに教会へ向かいました。
カトリック要理のあとK神父様に受洗希望を申し出ました。神父様は戸惑われたようですが、さすがに二度目の回心の出来事を話す勇気はありませんでした。神父様は、「復活祭には間に合わないから、8月15日被昇天祭の予定にします」と言われました。2月9日(日)は、復活祭受洗予定の人たちの入門式の日だったのです。
熱心さを取り戻した私は、4月4日(土)からは、初土曜日にも夙川教会の夕方のミサに出席するようになりました。そして、4月下旬になると、「5月のゴールデン・ウィークには何としてでも秋田の聖体奉仕会へお参りしなければ」と思い始めました。この感情を言い表すのは難しいのですが、心の内奥からせき立てられているようで、この機会を逃せば自分の人生において取り返しのつかない損失になるという感じです。
秋田の出来事について私が詳しく知ったのは、北野教会に通っていた頃です。ミサからの帰りにN氏家におじゃましていたとき、本棚にあった『極みなく美しき声の告げ』(コルベ出版社1980年増補版)という本の題名に目をひかれて手にすると、N氏が「ぼくも一時期は熱心に宣教活動したけれど、ニセ物という噂が流れてからは熱がさめてしまったよ。興味があるなら持っていっていいよ」と言って下さったのが、関心を抱くきっかけでした。
その年(1989年)の夏の休暇に東北旅行を計画していた私の弟に便乗して、8月20日の夜は仙台に1泊、21日には平泉から角館と巡り、22日の午後に秋田市添川湯沢台の聖体奉仕会に1時間ほど立ち寄ったのが最初の訪問でした。涙を流されたという木彫りの聖母像の前でシスターのお話を聞きました。私がロザリオの祈りを始めて弟と2人きりになった隙に、弟は制止する間もなくツッと手を伸ばして聖母像の右掌に触れました。すぐ手をひっこめて変な顔をしているので、「どんな感じだった?」ときくと、弟は言いにくそうに「なんだか人間の掌のような感触だった」と呟いたのを覚えています。
秋田への最初の訪問は、好奇心に駆られて観光がてらという気分でしたが、2回目の今度はそれでは済まないという気がしました。また弟を誘って、5月4日(月)の朝の飛行機で発ちました。電話で予約して、聖体奉仕会の訪問者用の宿泊施設「聖マリアの家」に1泊させて頂けたので、ロザリオの祈りや「晩の祈り」、翌朝5時に起床して「朝の祈り」等に参加できました。それまでカトリック教会や修道院の祈りの集いで体験してきた雰囲気とはあまりにも違うので驚きました。「聖母像の落涙現象が止んでから10年以上も経つのに、これほどの緊張感が漂っているとは! これは本物だぞ」と直感しました。そこで、シスター方に私の事情を手短に話して、「無事にカトリックの洗礼を受けられるように祈ってください」とお願いし、涙を流された聖母像の前でもロザリオを祈ってお願いしてきました。
5月23日(土)には、北摂キリシタン遺跡を訪ねる集いに参加しました。北摂キリシタン遺物資料館を見学してから、高山右近像のある「愛と光の家」にも寄りました。祈りや黙想にもってこいの静謐な環境を味わって、心が平安に満たされる思いがしました。
5月24日(日)の夜明け前のことです。早く起き出して机の椅子にすわってロザリオを祈っていますと、突然、窓の外に太陽のように輝く光を見ました。知らぬ間に夜が明けたのかというほどの明るさでした。部屋の窓が北東向きで、窓の下に机があり、しばしば祈っているうちに夜明けを迎えていたからそう思ったのです。しかし、光はすぐに消えました。目の錯覚だったと思っていると、光の消えた方向から銀の鈴を振るように美しい女性の声が聞こえてきました。それは耳に聞こえると同時に心の中に直接響いてくるような声でした。
「時が迫っています。協力してください」。
私は驚いて、聞き返しました。
「そんなに時が迫っているのですか?」。
長い沈黙が続いて返事がないので、私は改めて問い直しました。
「私は何をすれば良いのでしょうか?」。
短い沈黙のあと、銀の鈴のような声が聞こえてきました。
「祈ってください」。
光がチラッと見えて、去っていかれる気配がしました。私はこれまでの信仰生活の経過をふり返り、何かしるしを頂けなければとても信仰を維持できない、今日のことも単なる幻覚か夢の中のこととして忘れ去ってしまうだろうと感じました。訴えかけるような気持ちだったと思います。私の気持ちが届いたのか、遠ざかってゆく光の源から一条の光の筋がのびて、窓の下に立ててあった少年イエス(御絵の説明文に「少年イエス」とあるので以後統一)の御絵に触れたように見えました。これはほんの数秒のことで、光はそれっきり見えなくなり、部屋の中は夜明け前の暗さに戻りました。
私は長い間、光が消えてから声を聞いたと思っていたのですが、今この文章を書いていて、光があまりにも眩しくて私の目が見えなくなっていたと書く方が正確ではないかと考えております。光が眩しくても通常の光のように目に痛みを感じるということはありませんでしたので、光が消えたと勘違いしていたのかもしれません。というのは、光が去ってゆくときに前述のように刺激の変化によってまた光を見たように記憶しているからです。いずれにしても、確かめようがないのではっきりとはわかりません。
翌5月25日(月)の夜明け前のことです。昨日から何をしても心は上の空でずっと祈り続け、夜中祈り続けましたが、とうとう眠気に勝てず布団に入ってうとうとしました。夢を見ていて「馬を走らせろ! 大阪がなくなるぞ! 大声で叫べ!」という男性の声にハッと目が覚めました。夢の内容は忘れましたが声は非常にリアルだったので、恐れおののきながら祭壇の下にひざまずいて祈りつづけました。
一息ついて机の椅子にすわり、昨日見た光のことを思い返しているうちに、光の去りぎわに一条の光の筋が窓の下の御絵にのびたことを思い出して、あれは何だったのだろうと御絵を手に取りました。夜明けの明るさで少年イエスの御絵をながめますと、それが涙の御絵に変化しているのに気付きました。その時です。まるで私が御絵の涙に気付くのを待ち構えていたかのように、部屋隅や家の周囲にいるらしい何百何千という霊魂たちが「天の自由!」「イエズスさまが絶対!」「努力!」と口々にいっせいに叫ぶのが聞こえました。
姿は見えませんが叫び声に圧倒されて「いったい、これは何事だ!」と思わず私が声を出すと、それを合図に、合唱が指揮に合わせてピタッと口をつぐむように叫び声はやみました。それっきり霊魂たちの叫び声は聞こえなくなりましたが、私の身体全体から力が抜けて肩や膝がガクガクふるえ、ふるえは止めようにも止まらず、机の上に突っ伏して耐え忍ぶのが精一杯でした。
2010年07月27日
少年イエスの涙
1992年5月25日(月)の夜明けの時に、変化に気付いた少年イエスの御絵について報告します。
問題の御絵は、タテ140ミリ・ヨコ89ミリの絵はがきで、少年イエスの胸より上の肖像画です。絵の下側には幅15ミリの余白があります。御絵の裏、つまり音信面の左下隅には縦書きで以下の説明文が小さく印刷されています。
☆ 少 年 イ エ ス〔部分画〕
ホフマン(1824−1911) 【独】
「イエス智慧も身のたけも弥増さり神と人とに益々愛せられ給う」(ルカ伝二章)と記された場面、僅か十二歳の愛くるしい一童児が、エルサレム神殿に学者等と応酬し彼等を驚倒せしめたるさまホフマンの才筆に躍如たり。
この御絵は、ご近所のプロテスタントの信者さんの家庭で開かれていた日曜学校で貰ったものだと思います。私が幼稚園か小学校の低学年の頃です。お菓子や御絵を貰えるのが嬉しくて何度か通った記憶があります。それらの御絵は子供心にも美しいと感じたので大切に机の引き出しの奥にしまい込み、たまに取り出して眺める時以外は忘れていました。日曜学校も、非常に内気な性格だった私は自分から積極的に通うまでにはいたらず、自然に足が遠のきました。
1992年2月の二度目の回心のあと、思い出して机の引き出しの奥から少年イエスの御絵を取り出し、見開きの2枚つなぎの額の左側に納めて窓下の机の隅に立てました。
御絵を納めた額は、本体がプラスチック製の黒いフレーム2つで出来ていて見開きに2枚の絵や写真を納められるようになっており、2枚のガラス板と、裏から絵を押さえる2枚の透明なプラスチック板からなっています。この額の右側には、幼いイエズスの聖テレーズの顔写真を納めました。
少年イエスの御絵の右側に納めた幼いイエズスの聖テレーズの写真は、私がカトリック教会に通うようになってから購入したものです。タテ129ミリ・ヨコ85ミリで、修道服姿の胸より上を真正面から撮影した顔写真です。写真の下側には幅16ミリの余白があります。写真の裏には横書きで、上方隅に「私の道は、完全な愛と信頼の道です。テレーズ・マルタン」と2行に記され、左下隅には小さい字で「photo 1895 office Central de lisieux 無断で複製することは禁じられています。」と3行、右下隅に同じく小文字で「女子パウロ会 SP. 7」と1行に印刷されています。郵便用のはがきには作られていません。
少年イエスの御絵の御顔は右上方を向いています。額が置いてある机の椅子にすわって右手、南東側の壁隅には祭壇に使っている棚があります。その上方、天井近くの壁に、5月4日にお参りした時に購入した秋田の涙の聖母像の額入り顔写真を掛けました。その涙の聖母の眼差しが、見方によっては左下を向いているように見えるのです。「少年イエスと秋田の聖母がみつめあっておられる」と、何度か感じたことを覚えています。意図してそんな具合に御絵を置いたわけではないのに、偶然にしてはピッタリと視線が合っていると、よく見比べては不思議に思っていました。
少年イエスの御絵、幼いイエズスの聖テレーズの写真、秋田の涙の聖母の写真、これら3点はすべてカトリック教会の神父様によって祝別済みのものです。私は御絵やロザリオ、メダイなどの聖具類はいつも神父様に祝別して頂いてから使うようにしております。
1992年5月25日時点で気付いた少年イエスの御絵の変化は、絵の表面から水分がにじみ出して涙のように見えるという種類の変化ではありません。もともとの絵が涙を流している顔を描いたものであったかのように変化してしまったのです。要するに、それまでは描かれていなかったものが描かれている御絵に変化したのです。もちろん、御絵といっても絵はがきとして製造された印刷物ですから、あとから筆を加えたのなら斜めに光をあててすかして見れば絵具の凸凹でそれとわかりますが、印刷表面は全く滑らかで、あたかも原画が涙の御絵であったものを印刷したかのようです。
少年イエスの涙の位置は、右目の下に1条の筋をひいて1粒、左目の下に1粒、あわせて2滴が真珠のように光っています。もともとの御絵の中に違和感なくとけ込んでいて、御絵の原画を描いた画家自身、あるいはそれ以上の技量がなければ、とてもこれほどうまくは描き加えられないだろうと思えるほどの見事なものです。
2010年07月27日
疑念と当惑
前項までに私は、祖母の病気をきっかけにロザリオの祈りを始めてから、自分では思いもかけなかった体験に足を踏み込んでいった経緯について報告してきました。読者の方は、これほどはっきりした大きなお恵みを頂いたのだから、さぞ信仰にも確信が持てて励みになっただろうと思われるかもしれません。実は私も、キリスト教に関わる前には、何か確信を持てるようなことを体験したり、悟りを得ることができれば、きっと心が楽になって一筋の道に邁進できるだろうと想像していました。ところが、現に自分がこうして恵みを受けてみると、頭の中で想像するのと実際に体験するのとでは大違いだと気付かされました。
確信といっても、常日頃からの心構えがしっかりできていなかった私にとっては一時的な心の状態にすぎず、確信を得るきっかけとなった恵みが大きければ大きいほど、それに対する反動も大きくなるような気がします。「朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり」(金谷 治 訳『論語』岩波文庫)などと堂々と言える人は、すでにかなりの修行を積んできた人で精神的な水準も高いレベルに達しており、あと残っているのは確信を得ることだけという状態だから、そのように言えるのでしょう。
私のように、青春時代から道を求めてさまよってきたと言っても一応の名目で、実質的には自分勝手で放恣な生き方に時間を費やし「帰ってきた放蕩息子」(ルカ15章)のような心境で教会に来た者には、せっかくお恵みを頂いてもその恵みによって与えられた確信という心の状態を維持してゆくこと自体が、なかなか困難な試練なのです。確信を信念として維持してゆくには努力が必要で、信念から信仰へと成長させるためには、どうやらたゆまぬ祈りと勉強が必要らしいのです。
「見ないで信じる人たちは幸いである」(ヨハネ20章29、フランシスコ会訳)というみ言葉の意味がよくわかります。見てから信じたのでは信じて当たり前で何の功徳にもなりませんし、信仰において成長しなければ、与えられた恵みに対する責任を問われかねません。なぜ帰ってきた放蕩息子に大きな恵みが与えられねばならないのかよく理解できますし、どうしてこういう恵みが人々に軽々しく与えられないのか納得できます。
話をもとに戻します。1992年の5月、「光の恵み」の体験のあと私の心の中にまず湧いてきたのは疑いの念でした。夢や幻覚を見たのではないかという思いです。しかし、「光の恵み」や霊魂たちの叫び声を聞くという体験だけなら幻覚や幻聴で片付けることも可能ですが、「涙の御絵」というしるしがあります。こんなことがあり得るのだろうかと何度も御絵を斜めにすかしたり裏側から光をあててみたり、シミやカビが偶然付着して涙のように見える可能性などいろいろと考えてみましたが、どう拡大鏡で眺めても見事に描かれた涙としか言いようがありません。
次に疑ったのは、もともとそういう涙の御絵だったのに自分が気付かなかっただけではないかという可能性です。自分の注意力や記憶力を疑ってみたわけですが、この点も、幼い頃から所持してきた御絵で、長い間机の引き出しの奥にしまい込んでいたとはいえ、たまには取り出して眺めていたのですから、もともと涙の御絵だったのならそうと気付かなかったはずがありません。
カトリック教会に通うようになってから久しぶりに御絵を眺めたとき、なんだか以前に比べて御絵が愛くるしく感じられると思った記憶があります。どこがどうとは言えないのですが、少年イエスの顔が急に生き生きしてきたように感じたのです。キリスト教に関心を抱き始めた私の心の状態の変化によるものと思っていました。この時点で、涙が描かれていなかったという記憶は、はっきりしています。また、ホフマンという画家の描いた情景(ルカ2章)に涙はどう考えてもそぐわないものです。数年後に、同じ画家の同じ情景を描いた別の絵はがきを手に入れましたが、やはり涙は描かれていませんでした。
どうにも疑いようがないとなると、今度は自分の体験した出来事をなんとか自分の頭で合理的に解釈しようと試み始めます。人間とはよほど往生際の悪い生き物らしく、これでもかと何度もびっくりするようなお恵みをいただいても、納得できるまでは、すぐに「へへーっ」と平伏して拝んだりしたくないという気持ちが働くようです。科学が万能で人類が地球の支配者だという風潮がまかり通る現代の日本の社会に住んでいると、気付かないうちに知らず知らずに心が傲慢になっているのです。
あの太陽のように輝く光はUFOではなかったのか、大勢の叫び声は人間より高度に発達した精神文明を持つ宇宙人と接触したのではなかったのか等々、まるでSFの世界に出てくるような状況を思いめぐらしてみるのですが、どうも直感的にそうではないと感じられます。
宇宙人という考え方は、ある意味では正しいように思います。私たち人類も、宇宙の中の地球という1つの惑星に住んでいるのだから宇宙人です。つまり、昔の言葉では天地としか表現できなかったが、近年では宇宙という言葉で表現される全世界の創造主としての神をキリスト者は信仰しているという意味においてです。未知の領域と接触したショックや恐れ、不安は感じましたが、かといってSF映画に出てくる異星の異質な環境に住む宇宙人に出会ったような気味悪さや不気味さは全く感じなかったのです。むしろ、本質的に自分自身と同質でつながっていると直感することによる親密感さえありました。
従って、この場合における宇宙という言葉は、単に物質的な三次元の世界のみを指すのではなく、この世の人間の合理的な理解力をはるかに超えた霊的で多次元的な、より高次の世界を指すことになります。ただ、より深い感覚では、「言語に絶する」としか言いようのない部分もあります。人間が使っている言語は、物質的な世界の日常生活における意思の伝達のために創られており、共通認識から外れた深い真実や特殊な体験を表現するためには出来ていないのです。
どうも、宇宙人という考え方をすると、かえって話がややこしくなるように感じます。むしろ、私たちの住んでいる世界が、どうやら物質的なこの世の世界だけではないらしいと、直接的な珍しい体験で感じさせられた、と述べる方が真実に近いように思います。
十数年を経た今でこそ、こうしてある程度筋道立てて述べることが出来ますが、当時の私の心の動揺は非常に激しかったので、耐え忍んでロザリオを祈り続けるのがやっとという状態でした。赤ん坊がローソクの火に手をのばすときには、熱さを感じてから初めて手を引っ込めて泣き出します。そのように未知の領域と接触したときには、自分の判断力そのものが当てにならず、体験していることにどのように対処してよいのかさえわからなくなるようです。
2010年07月27日
カトリック受洗
1992年の5月から6月にかけて私の心がどれほど動揺していたか、私の周囲にいた人々や夙川教会でロザリオを一緒に祈っていた人々はよくご存じのことです。思い返すと、それは、私の回心に対するサタンからの総攻撃にあっていたと言う方が納得できるものです。いただいた恵みへの疑念や当惑だけでなく、キリスト教に対しても1日のうちに、いや1時間のうちにも心がごろんごろんと何回も180度回転するので苦しくてなりません。額や掌にあぶら汗がにじみでてくるほどです。「キリスト教は十字架に掛けられる覚悟が必要だが、仏教は楽だし、自分にはその方が合うのではないか」とか、「真実こそが重要だ。イエズス様は十字架に掛けられるまでに私たちを愛してくださった」というように、正反対の考えが次々に浮かんできては心を乱します。
「涙の御絵」については、5月30日(土)にYさんの立ち会いのもとに簡単な報告書を御絵に添えて夙川教会のK神父様に提出しました。5日後に御絵をお返しになられたときに、「御絵といっても印刷物だから私にはなんとも言えない。出来事についてはその後の経過をみて沈黙を守るように」、また私の洗礼について、「あなたは少し問題があるようだから、時間がかかるかもしれない」と首をかしげながら述べられたのは、私にとってショックでした。ひょっとすると受洗まで、まだこれから何年もかかるかもしれないと考えると絶望的な気持ちになります。
そんなとき、夙川教会の土曜日の夕方のミサのあと、ロザリオの祈りのグループの集まりの場で、私の陥っている状況について話しますと、O夫人が「灘教会の浜崎伝神父様なら洗礼を授けてくださるかもしれない」と教えてくださいました。
何かお導きがあるかと思って、6月7日(日)、カトリック灘教会の聖霊降臨のミサに、少年イエスの涙の御絵を鞄に入れて出席しました。そのミサからの帰りの電車の中で知人に出会い、同日午後に玉造のカテドラルで行われる大阪教区設立百周年記念のミサへ誘われて、そのまま同行しました。
自宅に帰ってから、鞄に入れて持ち歩いていた少年イエスの御絵を取り出して調べてみますと、新たに右の眦から涙の筋が頬をつたって流れ落ちています。やはり、水分がにじみ出るというような変化ではなく、もともとの原画がそういう御絵であったかのように変化しているのです。
「これはたまらない。こんな調子でどんどん涙を流されたら、そのうちに血の涙になるかもしれない」と思うと、ぞっとしました。「イエズスさま、どうかもう涙をお流しにならないでください」という一念で、その夜は徹夜で祈り続けました。神さまからのお恵みの意味について、全く分かっていなかったのです。もっとも、いまでも十分理解できているとは言い難いのですが。
翌6月8日(月)の夜明け頃です。今度は、光は見ませんでしたが祈っているときに急に主の臨在を感じ、あの銀の鈴を振るような女性の声で「灘教会、6月」と言われるのを聞きました。「死ぬ覚悟で行動しなさい」とも言われました。
意を決して、6月9日(火)の灘教会の夕方のミサに出席したあと、O夫人の御紹介で浜崎伝神父様に事情をお話しして受洗希望を述べました。神父様は私がカトリック要理を勉強したかどうか尋ねられてから、「あなたのような人は、むしろできるだけ早く洗礼を受ける方が良いと私は思います。受洗予定日はいつにされますか?」とさっそく促されるので、カトリック手帖を繰ってみますと、6月27日(土)に、「聖母のみ心」と小さく記されています。
私はファティマのマリアさまの本を読んだのがきっかけで教会へ来るようになったのだから、「洗礼を受けるのはこの日だ」と心が決まってそう申し上げました。私の横でなりゆきを見守っていたO夫人がびっくりされて、「実は、この前の聖霊降臨の日曜日から聖母のみ心に家族を奉献したいと考えていたので、ぜひこの方の洗礼式に続いて私の家族の奉献の式をしてほしい」と言い出されました。
これで、やっと洗礼を受けられることになったわけですが、気掛かりなのは洗礼を授かったあと聖体拝領にどういう態度でのぞめば良いかということです。聖体拝領の仕方について真剣に導きを求めて数日間ロザリオを祈り続けました。
6月12日(金)の早朝、お祈りのあとで急にひらめいて、そばにあった聖書(フェデリコ・バルバロ神父訳、講談社1988年5月第7刷)を、目をつぶったまま左手でパッと開いて右手の人差し指をページの上に突き立てました。目を開いてみると、人差し指はフィリッピ人への手紙第2章の10節と11節の真上に置かれていました。
そこにはこうあります。「それはイエズスのみ名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみなひざをかがめ、すべての舌が父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」。
フランシスコ会聖書研究所訳(1989年4月改訂15刷)のこの箇所の註には「イザヤ45:23、ローマ14:11参照」とあります。バルバロ神父訳で参照箇所を見てみますと、イザヤの書45章23節には「私自身を指して誓ったことば、私の口から出るのは真理であり、取り消せぬことばである。そうだ、私の前にすべてのひざはかがみ、舌は、私によって誓いを立てる」とあり、ローマ人への手紙14章11節には「『主は言われる。私の命にかけて誓う、すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌は神を賛美する』と書き記されている」。さらに同12節には「こうしておのおのは神に自分のしたことを報告するであろう」とあります。
私はすぐに、「わかりました。たとえ私のほかに誰もひざまずかなくなっても、私だけは御聖体をひざまずいて口で拝領することをお約束します」と決心しました。無神論や他の宗教等への遍歴が長く、中年になってからやっと教会に辿り着いたため心が不安定で葛藤の多い私は、3年前の最初の回心以来の経過をふり返って考えてみても、聖書のみ言葉に基盤を置くのでなければ長期間信仰を維持してゆくのは困難だと感じられるからです。
しかし、実際には、ひざまずいたときに神父様から「立ちなさい」と命じられれば、立って一礼して聖体拝領をあきらめて自分の席へ戻りますし、ひざまずいては貰えない神父様だとわかっていれば遠慮して、隅の方で目立たないようにミサに出席しているのが現状です。
その日、6月12日(金)の夕方にK神父様からお電話があり、「8月15日に受洗希望の方の入門式が6月14日に夙川教会でありますが、どうされますか?」とお尋ねになるので、恐縮しながら灘教会で浜崎神父様から受洗することを報告してお詫び申し上げますと、「それでいいです」と快く了承してくださいました。
6月16日(火)の灘教会の夕方のミサに出席して、浜崎神父様に受洗の準備について尋ねますと、「『公教会祈祷文』というお祈りの本はお持ちですか? あの中の『聖霊の御降臨を望む祈』を毎日となえなさい」とご教示頂きました。そこで毎日、朝と晩のお祈りの時に教えられたお祈りもとなえるようにすると、動揺しがちだった心も少しずつ落ち着いてくるような気がしました。
6月27日(土)、いよいよカトリックの洗礼を受ける日がきました。私は、洗礼を受けて御聖体を拝領したら、そのまま死んでしまうかもしれないと思っていました。「死ぬ覚悟で行動しなさい」と言われていたからです。家族や、道行く人々や、街道や並木、夕ぐれの光を浴びている雲や青空に、それとなく心の中で別れを告げながら灘教会の午後6時のミサへと向かいました。
浜崎伝神父様から私はカトリックの洗礼と堅信の秘跡を同時に受けました。無事に聖体拝領も済んだあと、O夫人の御家族や出席者の方々と一緒に聖母マリアの汚れなきみ心への奉献を行ないました。出席者それぞれが百合の花を1本持ってくることになっていましたが、打ち合わせを知らなかった人たちにもぴったり1本ずつ12名全員に百合の花がゆきわたったのは不思議です。
式が終わってから「おめでとう」と言うYさんに、「洗礼を受けて御聖体を拝領したら、そのまま僕は死ぬかもしれないと思っていました」ともらすと、Yさんは「あなた、何を言ってるのよ」とくすくす笑い出し、笑いが止まらずに「おほほ、あはは」と笑い続けるので、「何がそんなに可笑しいんですか?」ときくと、「あなた、それじゃまるで聖人じゃないの。そんなに簡単に天国へ行けるもんですか。これからが長いのよねぇ」と言いながら笑い続けています。私は「そんなものか」と、なんだかホッとしたような、気が抜けたような気持ちになりました。
人間とは勝手なもので、信仰が維持してゆけないからお恵みが欲しいとねだったのに、お恵みが大きすぎてつらければ文句を言います。受洗後まもない早朝、再び主の臨在を強く感じたので平伏して、「いくら帰ってきた放蕩息子を喜ばれるにしても、これではあまりにお恵みが大きすぎるのではないでしょうか。たえてゆくのがやっとです。こういうお恵みは、普通は修道院の奥まった部屋で与えられる種類のものではないのですか?」と申し上げました。すると、銀の鈴を振るように美しい女性の声で「教会が緊急事態だからです」と答えられました。それ以上は何も言われなかったので、私には教会のどういう点を指して言われたのかよくわかりません。
同じ時か別の時かはっきり覚えていませんが、「これまでのことをすべて書きなさい」とも言われました。私のように出版や編集に関わる仕事をしてきた者にとって、「書く」とは単に記録にとどめたり報告書を提出することではなく、雑誌等の出版物へ公に発表することまでを意味します。
勇気がなかったのです。ブルー・アーミ入会時のお手紙のやり取りがきっかけで、志村辰弥神父様へは少し詳しい報告書を提出しましたが、そのコピーを読み返してみても、いかに私の心が動揺していたかありありと分かりますし、キリスト教の神秘的な体験について殆ど無知で判断の基準を持ち合わせていなかったため、報告書の体を成さない日記風の要領を得ない文章になっています。キリスト教が根付いていない日本の現代社会で、神秘的な体験を発表しても変な目で見られるだけだし、社会的な信用を失いかねないという恐れもありました。結局、与えられた義務をぐずぐずとのばしのばししているうちに十数年が過ぎてしまいました。
2005年2月に、ファティマで聖母の御出現を受けられたルチア修道女が帰天されたのを知り、「急がねば」と直感して慌て始めました。もうこれ以上は引きのばせないという思いで報告文を書いてきた次第です。どうか、われらの主イエズス・キリストが私の弱さをも御計画のうちに入れておられて、すべてが神の聖旨の通りに取り計らわれることを願うばかりです。これで、私の最初の回心からカトリック受洗までの報告を終わらせていただきます。
この手記を読んだ方が、聖母マリアの汚れなきみ心のお働きのために、少しでも真剣にロザリオを祈る励みにして頂ければ、本当に幸いに存じます。
(ファティマ90周年・2005年5月から2007年10月、祈り記す)
2010年07月27日
あとがき
この報告文集の文章は、すべて著者である私が実際に体験したことの報告文であり、カトリックの横浜アクション・グループの機関紙である『ヴァチカンの道』に、2005年8月から2007年12月にかけて発表したものです。
今回、ブログへ発表するにあたって、内容に少し手を加えた部分があります。
この報告文に登場する人物は、発表当時に、故人以外は氏名をアルファベットで伏せております。
2010年7月27日 著者記す。
(このブログでは、コメントやトラックバック、メールやメッセージなどを一切受け付けておりませんので、よろしくご了承ください。なお、このブログの報告文を研究その他の目的でご使用になるときには、報告者名として島一木の筆名を明記されることを条件とさせていただきます)。
作品集紹介
2010年7月7日 ブログ句文集『父との半年』初版(埼玉)